山形国際ドキュメンタリー映画祭
に参加して、色々と思うことがあったので書きます。
まずはじめに、観た映画と参加した企画をザッと羅列すると
「ウラーッ!」
「マルセル」「チコレ」「ベルンハルト・ルジンブール」
「ニンホアの家」
「機械」
「ディスカッション:テレビドキュメンタリーの現場から東日本大震災を考える」
「夜明けの夢」
「猫、犬、動物、そしてサシミのこと」
「ドロガ!」「ディスインテグレーション93-96」
「創造の発端」「肉屋の女」
「BETWEEN YESTERDAY &TOMMOROW Omnibas 2011/2016」
「ユース・ラフカット!」
「このささいな父の存在」
「孤独な存在」
ひとつひとつ、感想を書けば途方もなく、寝てしまったものもあるので書きません。
でも、わたしは「撮る必然性」がその人にある映画が好きなんだと改めて思いました。
その気持ちが突き刺さるほどに伝わってきたのは「孤独な存在」でした。
特別な話は何も起きない、それでも距離とまなざしが、あんまりにも切なくて、ずっと釘付けでした。
あの映画は、今の、シャー・チン監督にしか撮れない唯一無二の映画でした。わたしは映画も監督についても詳しくないけれど、それでも伝わる、すごい映画だった。
自分の上映も、たくさんのお客さんが来てくださって、本当に嬉しかった。そして、その中でも(ティーチインが併映なので2本番分、40分もある中残ってくださって)言葉を直接伝えてくださった方々には、感謝しきれません。
「距離」の話をしてくださった方がいて、わたしはこの数日間その距離について、仕事中の取材でも意識してみたのですが、映画の妙はそこにある気がしました。
そして今作り始めた映画も、モロに距離の映画で、自分が作るの見るのも、一番は距離に興味があるのだと実感しました。
あとひとつ、ユースラフカットの時に、声をかけてくれた高校1年生の女の子がいました。丁度、わたしがドキュメンタリーを撮り始めたのも15歳、高校1年生の頃でした。
私はあんまりはじめはドキュメンタリーに興味がなく、はじめに作ったやつはヤバイに尽きるけれども、初めてDVカメラで学校の脇の桜を撮った時、すごくすごく楽しかった。
映画を撮るのは難しそうでやったことないんだけど撮りたい、と話すその子に、無責任にも撮ってみてほしいと言ってしまいました。
声をかけてくれたことがすごく嬉しくて、多分あの数分の会話を、私は、コンチクショーと思った時に何度も思い出して踏ん張るんだろうな。
長々と文を書いているのは、すぐにあるロケがめちゃくちゃ不安だからです。
胸が押しつぶされそうです。