掌握と暴力

完全にこの日記の存在をわすれていた。

Twitterとかに書きたいような、でも書いたらもったいないような気もする出来事が色々あって、メモがわりに日記を書いておけばよかったと反省している。

 

結婚・妊娠をして、1人でいる時間が格段に減った。逆にいままでは1人でいる時間が長過ぎたのかもしれない。1ヶ月ほど友人(友人の友人というのが正しいかもしれない)の家に居候したとき、実家に数週間いたとき、恋人と半同棲状態だったときがちょいちょいあったが、どれもそこまでストレスを感じたこともなかった。逆に1人きりで部屋にいると、自分は天涯孤独なのだ、という妄想に取り憑かれて気が狂いそうになることがあった。それは友人が近くにいるのか、仕事が順調か、パートナーの有無は全く関係なく訪れる感情だった。

とはいえ、人肌恋しい…みたいな感覚もあんまりなく、人間関係が煩わしくなってしまうこともあるのでしばらく恋愛はせずひとりお気楽に過ごしている時期もあったし、その時はその時で結構楽しかった。

 

いまは、夫がいて、お腹には子どもがいる。お腹の子どもは産まれるまで、生活の全ての時間を共にしなければいけない。それが知らず知らずのうちに大きなプレッシャーとなっていたし、どんどん変化する自分の体や(性的魅力は劣化していく)、操縦不能な感情に疲弊する毎日だ。それでもなんとなく、日々の中にいい瞬間がいくつもあって、生活は穏やかに流れている気がする。だから、わたしはついてるな、ラッキーだなと思う。

 

 

新宿駅のモザイク通りはいろんな思い出の詰まった場所だ。小学生の頃からの親友との待ち合わせ場所は、大抵モザイク通りだし、そもそもモザイク通りは高校生の時に2人でいる時に初めて通った場所なのだ。

モザイク通りの中間にキッチンカーみたいなのがとまっている。デカい看板には白人男性のシェフ?オーナーの陽気な表情が印刷されていて、押し売りされてる気持ちになる。

先日、モザイク通りの前を通ると、そのキッチンカーが通りの出入り口のあたりまで出てきて、さらに看板もデカくなっていたのだ。咄嗟に、親友にLINEをしようとしたが、彼女はもう関西に引っ越してしまった。LINEをして、え?今日会いたくない?って言い合って、そのままお茶したり夕飯を食べたりするやつは今はできない。なんだか寂しくなって、連絡するのをやめてしまった。

 

 

久しぶりに映画館で映画を観た。夏に感染者が爆発的に増え、体調も悪く自宅で寝たきりの指示が出てしまい、それからは映画館に行くことも無くなっていたので、少し嬉しかった。

映画の主人公も、もう1人の女の子も、どちらも自分に重なるところがあって、胸が痛かった。

主人公の恋愛における暴力性、自分にも結構あるな、と思う。自分のものにしたいという衝動が、わたしにもある。ただ、相手にそれを見せないのがとてもうまいとも思う(ここは主人公とはだいぶ違う)。

すべてを掌握したい、そんな暴力的な感情がある。すべてを知りたいから、相手になりたいとさえ思ってしまう時がある。そして、うまいこといって、いつもいつも知り過ぎてしまう。相手の気が付かないうちに。そして勝手に1人でその事実に傷つく。相手には言わない。

 

そんな自傷行為やめなよと言われてもやめられないのだから、ほんとうに自分の恋愛感情は暴れん坊だ。そもそも好きな人があまりできないから、好きな人はいつも「やっと見つけた」相手なのだ。見つけられた時の喜びが大きいからこそ、そんな感情が大きくなってしまう。でも自分だってよくわからん。つらい。。。いまだに変わっていない。子どもが生まれたら変われるのかな。

 

 

外で久しぶりに会う友人たちはいつも体のことを心配してくれて、わたしの生活の話によかった、と笑顔をこぼしてくれる。稀にあるその瞬間が生きる糧になっている。

一人でお風呂に入っているとき、ふと、夫の悲しい顔は見たくないな、できるだけ楽しかったり幸せだったりする感情を自分は与えてあげたいな、と思う時がある。寝る前にふざけて話していてワハハと笑っているときや、お出かけした後にその日が終わることを惜しむ姿を見ていると、こちらも嬉しくてふと泣きそうになる。恥ずかしくてなかなかそういう気持ちを伝えることができないが、頑張ってこれからは言いたい。

 

このふたつの瞬間の積み重ねが、自分の暴力的な感情をすこしずつ小さくしてくれているのかもしれない。

 

でも、たまに暴れるのも悪くない気がするな。